本題のまえに、いくつかお知らせです。
「きょうのおかし」にくろねこクッキーを入荷しました。
2匹入りで200円!めんこいですよー。
焼き菓子つばめどうさん 作
今月から、仙台市内の複数のギャラリーを舞台に「ゼロ・アートプロジェクト」という複合イベントが計画されています。2ヶ月にわたり、展示やトークショー、そして上映会が催されます。つい二日前には、先陣を切ってゼロ次元展が始まり、主宰である加藤好弘さんのパフォーマンスで幕を開けました。
あいにく仕事の都合で、ぼくは上演を拝見することは叶いませんでした。とほほ。。でも、ギャラリーのご厚意により、パフォーマンスで使った映像を再上映して下さり、十分堪能させて頂いたのでした(関本さんに多謝!)。
ゼロ次元全盛時の記録映像と、加藤さんが1970年に制作した映画「いなばの白うさぎ」です。両者が、ディプティックのように横に並べられたまま同時に映し出されます。本来なら同時録音されている箇所があるはずですが、今回はそれがすべて省かれ、終始大音量のBGMが被せられていました。あくまでパフォーマンスを演出する舞台装置として編集し直されていたようです。
個人的には「いなばの白うさぎ」を完成当時のまま確認したかったので、ちょっとがっかり。とはいえ、勉強になったのはいうまでもありません。なにしろ、当時の動画を目にするのはこれが初めてなものですから。それに、若き日のダダカンさんも拝見できたし。それから、はしゃぐ秋山祐徳太子さんも!
男も女も白昼とにかくみな裸、そんな彼らが、数珠つなぎになって妙なステップを踏んだり、おなじ裸の人間をバケツリレーのように次々と受け渡したり、単純な所作を儀式としてただひたすら繰り返す、映画はこの連続で構成されています。意外だったのは、熱狂や秘教めいた雰囲気がほとんど見受けられない点です。文献や写真からだけでは、この和気藹々とした朗らかさには想到しかねます。どこか運動会、もしくはお遊戯会というか、無邪気な微笑ましさが画面中に溢れているのです。それは、出演者ばかりでなく、それを見守る観衆にも指摘できます。思いのほか、みな落ち着き払って鑑賞しているのです。通りすがりらしき人々も困惑した表情を見せません。どうやら、さくらも動員していたみたいですが、それにしてもこの混乱のなさには一抹の動揺を隠せません。というのも、ご自身の活動について、たしか加藤さんは「街を犯す」とか「テロ」だとか過激な言動をなさっていたはずですから(こんどお会いしたら聞いてみよう。。)。
ところで、裸の男女が列になってミニマムな所作を反復する。ピナ・バウシュの舞台にも、完全な裸体ではないものの、おなじ場面があったと記憶しています。しかし、両者の印象はまるで異なります。前者が、訓練された身体をあえて貧しい所作に急き立てて、逆接的に過剰な情動の鬱積と放電が試されるのに対し、後者はもともと貧弱な身体(おそらく全員がダンス未経験)を貧しく動かし、かえってそれに居直ることで、多幸的な共同性を生みだしているのです。表現としては、比べるまでもなくヴッパタール舞踊団が圧倒しています。ただ、ゼロ次元が醸すあの多幸感はどうにも異様です。
とまれ、ゼロ次元を含め、これからいろんな企画が待っています。なかには、弊店もささやかながら協力させて頂くイベントもあります。
「ダダッ子貫ちゃん ロングヴァージョン」の上映会です。これは、去年の秋口にも市内で上映しましたが(当日の記録はこちら)、監督である竹村正人さんがさらに編集し直して下さった長尺ものです。よかったら一度ご覧になった方もどうぞー。
日時:2012.5.15.tue.18:00-/2012.5.20.sun.15:00-
会場:両日ともSARP(Sendai Artist-Run Space)
そのほかイベントはこんなようすです。ぜひ!
2012.5.4-20「ゼロ次元展」@TURNAROUND
2012.5.15-20「前夜祭 2012仙台アンデパンダン」@SARP
2012.5.22-6.3「2012仙台アンデパンダン展」@TURNAROUND、SARP、artroom.enoma、GALLERY ECHIGO、ギャラリー チフリグリ、中本誠司現代美術館
2012.6.2.18:00-「画家 石川舜トークイベント(聞き手 鈴木直樹)」@SARP
2012.6.9-7.1「石川雷太展」@TURNAROUND
閑話休題。
小岩さんの展示は、ちょうど2年ぶりになります。前回は、80年代の駆け出しにまで遡って、そこから順を追って最近作までご紹介しました。
今回は、その後に撮られた写真をご覧頂きます。初出は、昨年市内で開かれた個展です。ただ、まえの記事でご説明したとおり、プリントは異なります。今回は、昨年末に出版された『世界』別冊(「東日本大震災・原発災害特集 破局の後を生きる」岩波書店、2011.12.8)の扉に使用されたものにあたります。
IWATE 2010
昨年の個展では、葬列を写したものが相当数含まれていました。印象的なのは、ここでも看て取れるとおり、決して先回りしたり、正面や俯瞰で取り押さえることがない点です。ほとんどが仰角で煽り気味に、しかもおよそ後方から撮られたものばかりなのです。まなざしは、葬列とともに彼らが歩む先へ向けられ、参列者じしんを対象化して風景から切り出すことは断じて避けられます。かえって、一歩ごと、彼らによって彩られる風景をこそ見出そうとしているかのようです。
いうまでもなく、心情的な同化など論外です。そんな驕りはどこにも見当たりません。むしろ、ひたすらともに歩み、おのずと湧き立つ風景を介して辛うじて触れ合うこと。この誠実さは、ただ参列者に対してばかりではありません。画面に浮かび上がる風景、写真そのものへのそれでもあります。そしておそらく、以前言及したことのある写真家の資質、つまり常に何ものかに遅れ続ける才能についての誠実さでもあるように思われます。
SENDAI 2011
SENDAI 2009
SENDAI 2011
IWATE 2011
SENDAI 2011
とてもドラマティックな構成です。
まず、正面性の強い電柱が、ふわっとソフトフォーカスでまなざしを受けとめます。ところが、つづく樹木は、おなじ正面性を下地にしながら逆に、鋭利かつ稠密なエッジを瞳に強迫してくるのです。耐えきれず、まるでガラスがひび割れるかのように、繁茂する葉に沿ってまなざしは散りぢりに粉砕してしまいます。この裂傷は次の画面へ波及し、稲妻が虚空を切り裂きます。するとこんどは、虚空そのものが、ぽっかり写しとられます。群生する百合をかき分けて、まなざしがその空虚へ吸い込まれてしまうのです。そして、最後の一枚では、やはり正面性が通奏低音として轟くなか、天の月光と地上の窓明かりが不思議な均衡を響かせ、まなざしは宙吊りにされてしまいます。
ちなみに、電柱を写した写真群は、小岩さん宅からの光景なんだそうです。定点観測的に撮影を継続なさっているようです。
FUKUSHIMA 2011.1
この画像では判別しづらいですが、うっすら電柱(おそらく木製の古電柱)が右奥へと連なっています。それに応じて、たわんだ電線がのび、遠ざかるごと次第にホワイトアウトしています。猛吹雪のなか撮影された風景なのです。
目紛しく遍歴を重ねたまなざしの運動も、ここにきてじっと凝視することが強いられます。今にも掻き消されそうな電柱、このわずかな黒い滲みにすがらずには、何ひとつ見ることが叶わないのですから。吹雪に耐えるように、まなざしは見ることに耐え忍ばねばならないようです。
2012.05.07 Monday | category:展示:小岩勉
| magellan店長 | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
こぶたのショートブレッド入荷!
3つ入りで180円。入荷早々、売れ行き好調です。まだの方も是非どうぞー。
焼き菓子つばめどうさん作
じつはこれの前にも、くるみのメレンゲを納品してもらっていたのですが、告知するまえに売り切れてしまったのでした。でも、せっかくなので、画像だけでも掲載しておきます。在りし日のすがた。。
ご報告が遅れてしまいましたが、お陰さまで無事に、古本とアンティークの蚤の市「+R」が、先月末日から再開いたしましたー。6月まで開催する予定です。場所はいつもどおり一番町のkurax(クラックス)。随時補充してますので、どうぞ何度でも遊びにいらして下さいねー。
きのう、久しぶりに展示替えを致しました。青野文昭さんに代わって、小岩勉さんです。
昨秋、個展(仙台写真月間2011於SARP)をなさった折の写真を再構成します。震災前後に撮られたものです。ただし、初出の際とはサイズが異なり、ずいぶん縮小しています。じつは、今回の展示作品は、ある雑誌に掲載するために、あらためて出力したものです。昨年末に出版された『世界』別冊(「東日本大震災・原発災害特集 破局の後を生きる」岩波書店、2011.12.8)です。その扉に採用された、オリジナル・プリントにあたるわけです。
会期は、さしあたり6月に展示替えを挟んで、10月ごろまでを予定しています。ぜひ!
作品自体については、また後日ご紹介いたします。
ところで、つい先ごろ、せんだいメディアテークの機関誌『ミルフイユ』の最新号が刊行されました。
『ミルフイユ』第4号、せんだいメディアテーク 編、赤々舎、2012.3
目次:
いがらしみきお「今日のつくり方」
序文「今日のつくり方」
小野和子「物語ること、生きること」
志賀理江子「消えたか否か未ださめぬ」
花森安治「見よぼくら一戔五厘の旗」
渡辺京二「豊かな生活」
椹木野衣「『今日』をつくる新たな人に」
グリッサゴーン・ティンタップタイ「こんちは、せんだい」
濱口竜介 酒井耕「他者の声、明日の映画」
鈴木太「店長コラム 三つの話」
石牟礼道子「しゅうりりえんえん」
山田創平「あの青空を思え」
北澤潤「いつかの少年へ」
てつがくカフェ@せんだい
佐藤泰「荷をほどく 『ミルフイユ』編集後記に代えて」
いがらしみきおさんや石牟礼道子さん、それから椹木野衣さんなど多彩な面子に交ざり、おなじみの志賀理江子さんも寄稿なさっています。第8回「志賀理江子レクチャー」(2012年1月22日開催)の原稿を加筆修正したものです。
津波のあと、彼女が直面してきた現実の数々が、衒いなく率直に綴られています。安易な解決や辻褄合わせなど姑息な贅言には一顧だに払わず、とにかく触れずに済まされないといわんばかりに、複雑な事態がありまま、間断なく粛々と、幾重にも折りかさねられます。とくに、震災夜半に体験したという致命的な衝撃は、二度言及され、変奏が試みられています。まず冒頭、初出直後に、それを敷衍するくだりです。
「小さな頃からの日常生活の中でずっと感じていたある種の違和感が突然無くなったような時間があった。それは見渡す限り真っ暗であらゆるものがキーンと真っ平らな世界で、むちゃくちゃ怖かった。元々社会がどう機能していたかということもあるけれど、私が体験したのは一瞬でも生活の場、社会とか文明が直接的に壊れて崩壊するとこうなる、ということだったんだと思う。私の写真の始まりがそのズレから来ているとしたら、その違和感がないということを私は求めていたのではなかったか。それは見事に、あの夜の恐怖と吐き気だけという最悪の気持ち悪さによってその間違いに気づいたのだけど、それでもあの暗い夜というのを尊い時間として忘れたくないと思った。沢山の死んでしまった人ひとりひとりの最後の時間のことを考えてパニックになりながら、あのときは自らに誓ったと思う」。
象徴的な価値がことごとく失調した「真っ平らな世界」、これが感性の及ばない超越論的な理念であるかぎり、その完全な現前は死滅を意味します。それにも拘らず、彼女は異常な執着を抱きます。恐怖や吐き気など身体による感性的な反応などものともせず、崇高なまでの誠実さによって繋ぎ止めようともがくのです。宗教的とも呼びうる、この超越性への希求は、やがて住民や復興へのまなざしを迂回しながら、ある偏差を被ります。
「その社会との関係の上に成り立つ生活で私がいま生かされている。だから、こことどのような関係を結んで今後生きていくかを真剣に考える。そして、その哲学のようなもの、それを一生かけて行っていくことだけが、あの日存在した均一で暗い夜を、あらゆる違和感が無くなった瞬間を自分の体の中から失わないでいられる方法なのだと思う」。
「真っ平らな世界」は、希求すべき超越性としてではなく、感性的な過程をとおして、むしろその最中においてこそ維持されうることが示唆されるのです。きっとこれは、多様な事実や解しがたい矛盾を、そのまま地層のように積み重ねてゆく本文のエクリチュールと無縁ではありません。というのも、まさにこの重畳を踏破する過程こそ、生の複雑さを辿り直すことに等しく思えるからです。すると、本文はその全体を賭けて「真っ平らな世界」を追究していることになります。
ところで、積層する圧力があまりに嵩じたせいか、つぎの一節では、エクリチュール自体が歪んでいます。
「津波は自然のありのままの姿だったと思います。恐怖の限界を遥かに超えていました、だからあの恐怖の絶頂で息絶えて流されたたくさんの人のことを思うと何も考えられなくなる」。
文体(丁寧体と普通体)が混合されて乱れるばかりか、句点を打つべきところを読点に代えられています。一般的な語法に照らせば異様です。
文頭ふたつの丁寧体が、読み手を顧慮しながらそれに相関して「津波」と「恐怖」を話者からよそよそしく引き離すかたわら、文末の普通体は「たくさんの人」を話者の方へ引き寄せています。つまり、話者からの距離を共有するかぎりにおいて、主観的なはずの「恐怖」は即物的な「津波」と等置され、その一方で、他者である「たくさんの人」がわたしとの距離を相対的に詰めて情動による共同体を形成します。そして、読点の使用が、後者の連続性を保証しています。無論、お互い渾然一体に溶け合うことはついぞありません。なにしろ、句点が「津波」と「恐怖」を区切り、文体の相違がわたしと「たくさんの人」を隔てているのですから。
ともあれ、ここで話者の立つ位置は、対象との距離が生じるごとに析出され、決して始めからは確定していません。あくまで書く過程をとおして、例えば自然とわたしが対象として見出され、それに応じて話者が呼び出されるのです。じつはこの話者こそ「真っ平らな世界」に対する実践的な解釈、変奏なのではないでしょうか。自然とわたし、そして他者、この三者が、浸透と分節を繰り返しながら、その都度そこからエクリチュールを紡ぎだす母胎。そこでは、あの震災の夜のように、一切が粉砕し奈落へ崩落する一方、書くことをとおして、生まれ直すことが賭されているのです。
2012.04.20 Friday | category:書評
| magellan店長 | 12:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
苺のスノーボール入荷!
※ 最初に大事なお知らせがあります。
3/30(金)は短縮営業になります。ふだんは-20:00までですが、この日に限り-19:00で閉店させて頂きます。
翌日から再開するイベントの会場設営があるためです。急な告知で誠に申し訳ありませんが、どうか宜しくお願い致します。
古本とアンティークの蚤の市「+R」は、一番町にあるkurax(クラックス)の3階で開かれます。3/31(土)10:00からスタート。遊びにいらして下さいねー!
閑話休題。
苺のスノーボールをあらたに入荷いたしました。ひと袋3つ入りで210円!どうぞー。
焼き菓子つばめどうさん作
ところで、弊店でも展示して頂いたことのある樋口佳絵さんが(当時の記録はこちら)、近々個展を開かれます。
地元でまとめて拝見できるのは、2007年の「アートみやぎ」(宮城県美術館)以来でしょうか。だとすると、もう5年越しになります。活動の拠点を東京へ移してから初めての、本格的な個展になります。これは、貴重な機会。たのしみです。
しかも、会場すぐそばの美術カフェPICNICAでは、写真家であるお父さま、樋口徹さんの写真展も開かれます。
こぐま画廊vol.1「樋口佳絵 絵画展」
会場:art room Enoma(アートルーム[エノマ])
仙台市青葉区一番町1-5-31 大友ビル2F
会期:2012.4.17.tue-23.sun(定休月曜)
時間:12:00-20:00(土日祝-18:00)
備考:作家ホームページ「箱の中」
「町の跡形report2 樋口徹写真展」
会場:美術カフェPICNICA(ピクニカ)
仙台市青葉区一番町1-5-31
会期:2012.4.17.tue-29.sun(定休月曜)
時間:同上
備考:作家ホームページ「樋口徹 photblog」
2012.03.29 Thursday | category:スィーツ
| magellan店長 | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
第1回 志賀理江子 試論 (分載4)
今期の写真専門誌 aperture に、志賀さんの写真が掲載されています。彼女は、大津波からまもなく、避難所で暮らすかたわら、散乱した住民たちの写真を発掘、洗浄する活動に着手します。そのあいだ、やまむにやまれずシャッターが幾度となく切られ、そうして残された痕跡がこれらの記録です(レクチャーの記録でも触れられていますが、作品をつくる構えは皆無だったそうです)。
aperture, 206, aperture foundation, spring,2012
興味深いのは、うち上げられた家畜や倒壊した家屋など、惨状を直截伝えるものばかりでなく、発掘された写真が数多く被写体になっていることです。土に埋もれたもの、砂まみれのもの、それらが幾重にも圧着したあげく、折れ曲がったもの。なかには、津波が押し寄せる北釜を写した新聞記事まで(避難所や仮設住宅では、どの世帯のスペースにも、なぜかこれが切りぬかれて貼り出してあったそうです)。
無論、雑誌の性格上なんらかの意図がはたらいているのかもしれません。しかし、そうはいっても、こうした私的な写真への即物的なまなざしは、まさに志賀さんのそれ以外にありません。レクチャーの中で、彼女は、北釜で生活することをイメージのなかに住むと表現したことがあります。あるいは、イメージに住まわれるとも言い換えられるかもしれません。イメージは、対象として捕獲されるものではなく、はるかに生々しくわたり合う環境として、彼女を囲繞し、巻き込んでいるのです。
ところで、併載されている竹内万里子さんの文章も必見です。志賀さんの、地震後の経緯が要領よくまとめられています。個人的にとりわけ印象に残る一節を引いておきます。
" If there had been no natural disaster, no tsunami, Shiga would not have had the oppotunity to touch or even see these photographs〔引用者注 津波で散乱した住民たちの写真〕. She interprets them as a warning to her, as a photographer, against arrogance."
Lieko Shiga, Mariko Takeuchi,"Out of a crevasse: The days after the tsunami",ibid.,pp22-29
最後におまけです。被災地の志賀さんを訪ねた、アヴィーク・センさんによる記事が『ART iT』のホームページに掲載されています。あわせてどうぞ。
「写真は抗う:志賀理江子との一日」
それでは「第1回 志賀理江子試論」のつづき(分載4)です。第1回はこれでおしまいになります。第2回もいずれ遠くないうちに。。
前回までの記事はそれぞれ、分載1、分載2、分載3をご覧下さい。
ちなみに、まだ当分先の話ですが、来年、志賀さんの写真を弊店で展示して頂く予定になっています。それまでの助走として、ときどきこうした紹介記事を掲載してゆこうと思います。
***
(承前)
さて、法の執行者になるという選択は、間違いなく倫理的行為だ。不安をかい潜る蛮勇と呼んでもよい。ところが、法を執行すること自体は、はたして倫理に適う振るまいだろうか。かえって、それは不安を封印し、徹底的に回避する悖徳ではあるまいか。なにしろ、いったんその立場を確保さえすれば、もはや不安を顧みる必要はなくなるのだ。あとはひたすら、無限に自己証明を繰り返す道しか残されていない。それゆえなのか、次作『CANARY』になると、執行者の立場はかなぐり捨てられる。無論、制作環境の激変が大きな理由だろうが。そう、『CANARY』ではもはや一方的に写真を弄ぶ意味が失効している。馴染みのない土地やその住人、つまり他者との応接が問いを形づくる。もし『Lily』がサディズム的と形容できるなら、『CANARY』はマゾヒズム的戦略を選択する。超自我を締め出し、他者と交わす秘密の契約のうちに法を委ねるのだ(★6)。
最後にもう一点だけ触れて、いったん本稿を締め括りたいと思う。それは「Lily」におけるユーモアだ。臀部を突き出したまま、なぜか大量のトイレットペーパーに押しつぶされる女。無邪気にフラフープを興じる少女。そして、タイトルにもなっている少女の、太々しい態度とでっぷりした腹部。ほかの写真が深刻さを醸すなか、一見これらのモチーフは相容れないように思われるかもしれない。しかし、こうして周囲の深刻さに距離をさし挟むのは、紛れもなく超自我の一面なのだ。自我に対する優位の現れのひとつとして、事態を滑稽にひっくり返してみせてくれているわけだ。ただ、それよりもあえて指摘しておきたいのは、これ以前には一枚たりともユーモアが認められなかった点だ。つまり『CANARY』へ跳躍せんとするまさにその瞬間に初めて、ユーモアが降って湧いている。それまで、深刻さ一辺倒だった超自我に何か異変が生じているのだ。ひょっとしたらこれもまた、来るべき『CANARY』ヘの徴候なのかもしれない(★7)。(第1回了)
【注】
★6 クラフト=エビングが命名して以来、サディズムとマゾヒズムは相補的に対称しうる概念として受容されてきた。ところが、ドゥルーズによれば両者の相容れなさは決定的だ。そもそも、自我と超自我ヘ託される機能や目的がまるで異なる。サディストは超自我を純化するために自我を外へ放擲し、マゾヒストは自我の幻想に供するために超自我を骨抜きにする。前傾書では、彼らの異同を逐一丁寧に選り分けてくれている。ただし、去勢、あるいは父の名を否認する一点において、つまり、ラカンのいう疎外後の分離が失調するかぎりにおいてのみ両者は一致する。
★7 これはフロイト寄りの穏当な(?)解釈だが、ドゥルーズに従えば、さらにラディカルな結論が導きだせる。「ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである」。(前傾書、154頁)だとすれば、「Lily」シリーズにおけるユーモアとは、サディストを擬態するマゾヒストの仕業かもしれないのだ。超自我が、その暗い意志で写真集全体を覆うなか、一方でそれに従うふりをしながら、他方でユーモアによってそれを脱臼せしめること。つまり、写真集『Lily』は、おのれの一部である「Lily」シリーズをとおして、自己言及的に脱構築を図っている可能性が見えてくる。『CANARY』が生まれた理由を、環境の変化など外的要因だけで片づけるのは大きな間違いだろう。もしかすると、『Lily』においてすでに自己批判を経ていたからこそ、次の展開が実現したのかもしれない。
***
志賀理江子公式ホームページ:Lieko Shiga
2012.03.17 Saturday | category:書評
| magellan店長 | 16:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
第1回 志賀理江子 試論 (分載3)
さる日曜日の11日は、閉店してから火星の庭さんへ顔を出してきました。この日は、特別に延長して営業なさると伺っていたものだから、ちょっとご挨拶するつもりで。
ところが、ほかにも10名弱ほどお客さまがテーブルを囲むなか、お酒やら粕汁やらおいしいお料理をご馳走になるうち、気づけば午前さま。毎度で(ちょうど一年まえの避難時も!)ほんとう恐縮ですが、感謝です。ありがとうございました!
さて、本題に移るまえにもうひとつ。

第6回の会場風景(せんだいメディアテークのホームページより転載)
この日曜日3月18日、いよいよ「志賀理江子レクチャー」が最終回を迎えます。
昨年6月を皮切りに、以来計10回、写真と北釜をめぐって濃密な語りが実践されてきました。
予定だと、最後は、北釜の人々を招いてその声に直接耳を傾けることになっています。実現すれば、間違いなく貴重な出来事になります。というのも、おそらく、志賀さんと住人の方々とのやりとりは、そのまま彼女が問う写真、イメージに直結しているはずだからです。彼らのあいだに、いかなる距離、角度、温度が、触発され、持続し、持ち越されるのか。固唾を呑んで見守る必要があります(悔しいことに、ぼくは行けないけど!)。
なお、第8回までの記録は、smtの7階に仮説中のアトリエで、3月31日まで閲覧することが出来ます。
志賀理江子レクチャー第十回(最終回)「北釜を招く 仮設住宅で一緒に生活している人達を招いての会話」
日時:2012.3.18.13:00-1500
場所:せんだいメディアテーク(以下smt)1Fオープンスクエア
参加料:無料(申込不要)
定員:30席程度
全プログラム
第1回 2011.6.12 イントロダクション 北釜へ
第2回 7.24 コミュニティの中へ 宇宙人だった
第3回 8.7 オーラルヒストリー 血肉の唄と言葉と身体
第4回 9.25 触れない、触れられない 思い上がるなという警告の存在達
第5回 10.23 写真は抗う 拾われた写真、この世の中の99.9パーセントの写真について
第6回 11.6 イメージ1 過去・現在・未来から脱する空間への儀式(ゲスト 竹内万里子)
第7回 12.18 イメージ2 強烈に明るい場、遠く冷たいまなざしにさらす
第8回 2012.1.22 消えたか否か未ださめぬ 今回の震災について起った事の全て
第9回 2.12 箱庭 写真と空間の関係、今回の展示について
第10回 3.18 北釜を招く 仮設住宅で一緒に生活している人達を招いての会話
※smtのホームページで、各回の簡単なレポートなどが確認できます。こちらからどうぞ。
それでは「第1回 志賀理江子試論」のつづき(分載3)です。
前回までの記事はそれぞれ、分載1、分載2をご覧下さい。
***
(承前)
『Lily』の感想として、怖さを訴える声をよく耳にする(★4)。たぶん、画面の不穏さに反応しているのだろう。しかし、それは作品の主題でもなければ目的でもない。あくまで法を現前させるための、かりそめの足がかりに過ぎない。かといって、そこに魅せられる謂れがないわけでもない。というのも、志賀じしん、法の執行者の立場にありながら、いくばくかは虐げられる対象にも同一化しているのだ。対象の歪みをリアルな証拠として痛感するには、かたやその身になる必要がある。そのためには、ただ一方的に傷つけるばかりでなく、写真のなかへ降りてゆかねばならない。マクロレンズによる接写はこの水準にこそ関わる。志賀が用いる技法は、倒錯型サディズム(★5)を構成する要素に従って、精確に配分されている。おのれが担う執行者としての超自我には、引き延ばしと加傷が充当され、外部に据えられた自我たる対象には、接写が割り振られる。
ともあれ、画面の不穏さは、この際やはり問題ではない。問われるべきは、何としても法を現前させんと急き立てる、あの衝迫であり、そうせざるをえない理由だ。かりに法が撤廃されたなら、まなざしは何もかも見失い、途端に生理的な一機能へ頽れるほかないだろう。ひとみに映えるのは、ただ生に有用な明滅に限られる。見るべきものを見出すには、是が非でも法が要請されねばならない。法こそがまなざしを可能にするのだ。『Lily』で下した志賀の選択は、みずからその執行を担うことだった。この退っ引きならない決行は、無根拠にしかなされえない。なにしろ、当の準拠すべき法そのものの選択なのだから。何ものもあてに出来ないなか、それでもなお責任を負うべく踏み出すこと。この振るまいを措いて倫理と呼べる実践などありはしない。数ある選択肢から、ある法を選ぶのではない。そんな高みからの余裕など、志賀の写真には金輪際無縁だ。ある振るまいは、ただそう為されるというそれだけの事実によって、避けようもなく何らかの法を選びとってしまう。法は、望む望まざるに拘らず産み落とされてしまうのだ。自由の極みにおいて選択ならざる選択が遂行される。それにともない、畏れや不安を抱かずにいられるだろうか。この不安こそ志賀の賭金だ。法を現前させんとする衝迫は、いうまでもなく法の執行者に由来する。しかし、そもそもの発端は、法そのものを選びとるこの自由への不安をおいてほかにない。
だとすれば、志賀の写真を見たといえるのは、同じく自由への不安におののきながら、手づからまなざしを組織しえた、ただその時のみに限られる。慣習どおり、惰性で目を通すだけでは何も見たことにならない。まして、好みに応じて気ままに愛でるなど論外だろう。暗中模索の不安を覚悟して、写真の闇を踏破するしか道はない。いよいよ断言しなければならない。やはり『Lily』は後ろから捲られるべきなのだ。加速する切迫感を味わうためばかりでなく、ささやかながら自由のためにこそ。(つづく)
【注】
★4 統計を取ったわけではないが、レクチャーの記録を読むと、本人の口からもその種の発言が確かめられる。
★5 「サディストは、みずからの超自我そのものであり、自我はその外部にしか見出されはしない。…放蕩者は、他人に課する苦痛をみずからも好んでこうむる。外部へと向けられた破壊の錯乱は、外部の犠牲者との同一視を伴っているのだ」。(『マゾッホとサド』ジル・ドゥルーズ 著、晶文社、1973、151-152頁)
***
志賀理江子公式ホームページ:Lieko Shiga
2012.03.14 Wednesday | category:書評
| magellan店長 | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) |






